竹富島

  • 竹富島

人口と寄百姓

竹富島の人口は、1651年時点で209人とされています。のち1694年に中国からサツマイモの種子が伝わったといわれ、これが大きな要因となって人口が増加したとみられています。

1711年、竹富島・新城島から西表島仲間村への「寄百姓」(=強制移住)が行なわれました。以後、竹富島から他島への移住は断続的に続き、1900年を過ぎるまで石垣島、西表島などへの移住が行なわていました。「寄百姓」を出した背景には、人口増加による耕作地の不足、それによる食糧不足などが挙げられます。明治期の竹富島の人口は増加傾向がみられ、「寄百姓」はなおも続きました。

(参考)明治期の竹富島の人口

1880年 133戸・783人(男314人・女469人)

1894年 153戸・956人(男423人・女533人)

1903年 175戸・1,115人(男510人・女605人)

  • 暮らし
  • 小浜島
  • 新城島
  • 波照間島
  • 竹富島
  • 西表島
  • 鳩間島
  • 黒島

テリハボク

  • RIMG0118
  • RIMG0339
  • RIMG0012

熱帯地方の海岸に広く分布し、防風林としても植えられているオトギリソウ科の常緑高木です。葉が光沢をもっているため、照葉木と呼ばれています。種子の油は灯用や薬用として、材は建築、家具材にできます。ヤラボともいいます。

 

  • 暮らし
  • 自然
  • 小浜島
  • 新城島
  • 波照間島
  • 竹富島
  • 西表島
  • 鳩間島
  • 黒島

藁算

  • 2012-01-26 09.42.05
  • RIMG0462

藁算は、文字の読み書きができない人たちが、ワラを使って様々な事柄を記録しておくのに使用しました。(竹富島文化協会より)

竹富島の喜宝院・蒐集館や、黒島のビジターセンターで見ることができます。

  • 暮らし
  • 小浜島
  • 新城島
  • 波照間島
  • 竹富島
  • 西表島
  • 鳩間島
  • 黒島

竹富町のゆるきゃら “ ピカリャー ”

  • ぴかりゃ~&川満しぇんしぇ

人気急上昇中の竹富町のゆるきゃら “ピカリャー”

イリオモテヤマネコより大型(ヒョウのように大きい!)と云われる伝説のオオヤマネコ=ヤマピカリャーがモデルです。おなかの模様は、竹富町の島じまのシルエット。ゆるきゃらグランプリ2011では全国からエントリーした「349体中30位」という結果!? 可愛い竹富町の観光大使です。

  • 暮らし
  • 竹富島

司馬遼太郎も訪れた喜宝院蒐集館

「街道をゆく6 沖縄・先島への道」の中で、「寺といっても寺院建築ではなく、普通の村の家の一つである。住まいそのものが寺になっているわけで...」と書かれているのが、日本最南端の寺、喜宝院です。先代の住職が生涯をかけて蒐集した4000点を超える民俗資料が、寺に併設されている蒐集館に展示されています。竹富島で実際に使われていた民具や農具、有史以来の沖縄の硬貨など、貴重な収蔵品もあり、竹富島の歴史文化を知るうえで一度はぜひ、足を運んでみましょう。

  • 伝統文化
  • 暮らし
  • 竹富島

グック(屋敷囲い)

  • RIMG0343

竹富島の美しい景観の一つである家を囲っている石垣は、グックと呼ばれ、隆起サンゴ礁の島を形成しているサンゴ石灰岩が野面積みされたものです。幅は約70cmほどで、両側に大きい石を積み上げ、その間にバタイシ(腹石)を入れて強化します。昔の茶碗のかけらや貝殻が入っていることもあり、石垣のタイムカプセルでもあります。

太陽がまぶしく照り返す珊瑚を砕いた白砂の道は、島の人々が早朝から、掃き清めるのが日課となっています。

  • 暮らし
  • 竹富島

カー(井戸)と米づくり

竹富島は昔から水に恵まれず、島の人々は天水と井戸を頼りに生活を営んできました。旱魃のときには、石垣島や西表島から水を運ぶという想像もつかないほどの困苦を味わってきたのです。米を栽培するためにも西表島まで舟で出かけていかなければなりませんでした。島人たちの悲願であった水道事業が完了したのは1976(昭和51)年。石垣島からの海底送水が実現し、長い間の水飢饉から開放されました。水の大切さを知る島人たちは、今でも、年中行事の「節願い」の時に、井戸を参拝し、大切にしています。

  • 暮らし
  • 小浜島

人口の移り変わり

もっとも古い記録では、1651年に152人、その後、大津波のあった明和8年(1771)では、900人という記録があります。明治時代には500人程度の人口でしたが、昭和になってから、1000人を超す人々が島に暮らしていました。戦後は、1960年代(昭和35)を境に減少し、2000年(平成12)に500人を下回った後、少しずつ人口が増え、2010年(平成22)には584人となっています。

  • 暮らし
  • 小浜島

農業

小浜島は、祭に関わりの深い五穀(米、麦、粟、大豆、もちきび)のできる島として知られていました。1950年(昭和25)ごろまでは、畑では主に大豆が栽培され、それ以後は、サトウキビが換金作物になるということで生産が盛んになりました。当初は牛車によって精糖が行われていましたが、1962年(昭和37)に本格的な中型の精糖工場ができました。現在は、高齢化により人出不足で、援農隊により支えられています。近年では、肉牛を主にした畜産業が盛んになってきています。細崎地区では、養殖モズクを中心に漁業が行われています。

  • 暮らし
  • 小浜島

島は「果報ぬ(かふぬ)島」といわれ、河川をもたない小さな島にしては地形の起伏、地質などの変化に富み、湧き水が多く、各戸に井戸が掘られ、水利条件はよかったといえます。とはいえ、干ばつになれば井戸水に頼る生活で、土壌に保水力がないため、水の確保は大きな課題でした。水の豊富な西表島からの海底送水が実現したのは1979年(昭和54)でした。
日本復帰前後をピークとして、土地改良事業を主としたさまざまな工事が繰り返され、地形は大きく変えられ、湧水や泉の多くが消失しています。

  • 暮らし
  • 伝統文化
  • 手仕事
  • 島の食
  • 暮らし
  • 自然
竹富島の地図を見る
シンポジウム・民俗芸能保存会公演「竹富町 島々の民俗芸能」開催
竹富島ツアー 2013年1月
  • 竹富島
  • 黒島
  • 小浜島
  • 新城島
  • 波照間島
  • 西表島
  • 鳩間島