竹富島

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新里村遺跡

「花城井戸」という井戸を中心に東側と西側に広がる集落遺跡で、竹富島の集落発祥の地といわれています。昭和61・62年度の発掘調査で大量の土器、中国製陶磁器(白磁碗、青磁碗、褐釉陶器)、須恵器、鉄鍋、鉄製のヘラ、刀子(小刀)が出土。東側は12世紀末~13世紀、西側は14世紀に形成された集落であることが明らかになりました。

東側に石積みの跡が出土されています。14世紀の集落にも石積みが残ります。石垣で囲まれた各屋敷と屋敷は通用門(出入口)で結ばれていた集落の形態を知る貴重な史跡となっています。(町指定史跡文化財)

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ミーナ井戸

昔から飲料水の確保に苦労していた竹富島には多くの井戸が残されていますが、この「ミーナ井戸」は集落からアイアル浜へ行く途中にある井戸で、信仰の対象となっており、今でも水を湛えています。(町指定史跡文化財)

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仲筋ぬヌベマの水がめ

新城島で焼かれていたパナリ焼きの水がめと苧麻の種子を得るために、新城島にヌベマという娘を嫁にやったという言い伝えがある水瓶です。(町指定工芸品文化財)

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蔵元跡

蔵元は、1524年ごろに琉球王朝時代に王府が、八重山を統一するために創設した政庁(役所)の跡です。竹富町出身の西塘を竹富大首里大屋子(タケトミウーシュリウーヤク・頭職)に任命し、統治させました。
竹富島での蔵元は、20年間続き、約200坪の屋敷跡や、高さ1.5m程の野面積みの石垣は東と南に現在も残っています。八重山の貴重な旧跡です。(沖縄県指定史跡文化財)

 

 

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西塘御嶽

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竹富島が生んだ偉人・西塘が島の守護神・学問の神として祀られています。西塘は首里王府に25年間仕えた技師で、1519年首里の園比屋武御嶽の石門築造で活躍。1524年ごろ、竹富大首里大屋子という頭職に任ぜられ、八重山諸島の統治にあたりました。この御嶽は彼の屋敷跡であり、埋葬地でもあります。(沖縄県指定史跡文化財)

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竹富島伝統的建造物群保存地区と 旧与那国家住宅

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屋敷内の伝統的な構成と配置に珊瑚礁のグック(石垣)に取り囲まれた伝統的な屋敷の中心に居室・寝室としてのフーヤ(主屋)が建ち、その西隣に炊事棟(トーラ)が位置しています。家屋の外観は、木造(貫屋造)・平屋の構造と、琉球赤瓦葺き漆喰塗りまたは茅葺の寄棟屋根、木板張り・木板雨戸の外壁、軒の深さと低さなどが特徴です。(国選定重要伝統的建造物群保存地区)

旧与那国家住宅は、伝統的な間取りの「ふーや」(主屋)と「とーら」(台所棟)を中心とする住宅の構えを良好にとどめており、また竹富町竹富島伝統的建造物群保存地区の核となる住宅で、竹富島における近代の住居形態と生活様態を理解するうえで、高い価値があるとされています。(国指定重要文化財)

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御嶽(ムーヤマ)

竹富島には、主要な御嶽、拝所が28か所あり、御嶽以外の拝所を含めると80か所あまりあるといわれており、その数は非常に多いといえます。

竹富島の伝統的な信仰の中心は、ムーヤマと呼ばれる御嶽です。ムーは数字の「六」、ヤマは「山」で、六つの御嶽を中心とした信仰です。
ムーヤマとは、玻座間御嶽、仲筋御嶽、幸本御嶽、久間原御嶽、花城御嶽、波利若御嶽の六つを総称した名称です。ムーヤマの由来には諸説があります。

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明和の津波

1771年、石垣島近海を震源とする地震「明和津波」が発生し、津波が押し寄せました。石垣島では約9,000人を超える溺死者が出るなど壊滅的な被害を受け、黒島・新城島でも多くの溺死者が出ましたが、竹富島は島にいた人々への被害はありませんでした。島では「竹富島は神の島であるから、津波のときに島が浮き上がって助かった」といわれましたが、実際は、石垣島から竹富島の東南方に伸びるサンゴ礁が天然の防波堤の役割を果たしたものと考えられます。

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人口と寄百姓

竹富島の人口は、1651年時点で209人とされています。のち1694年に中国からサツマイモの種子が伝わったといわれ、これが大きな要因となって人口が増加したとみられています。

1711年、竹富島・新城島から西表島仲間村への「寄百姓」(=強制移住)が行なわれました。以後、竹富島から他島への移住は断続的に続き、1900年を過ぎるまで石垣島、西表島などへの移住が行なわていました。「寄百姓」を出した背景には、人口増加による耕作地の不足、それによる食糧不足などが挙げられます。明治期の竹富島の人口は増加傾向がみられ、「寄百姓」はなおも続きました。

(参考)明治期の竹富島の人口

1880年 133戸・783人(男314人・女469人)

1894年 153戸・956人(男423人・女533人)

1903年 175戸・1,115人(男510人・女605人)

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八重山の芸能の成り立ち

八重山の芸能は、他の地域と同様、信仰を軸にしながら、農耕生活の過程において生まれ、発達してきました。

沖縄全体に共通する要素として、「御嶽(ウタキ)信仰」が原始共同体の中心にあったことが挙げられます。沖縄が狩猟採集生活から農耕を主体とした生産経済へと移っていたグスク時代(12~15世紀)、人々は台地上に集落をつくり、村の守り神を祀った聖域として構えたのが「御嶽」です。

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シンポジウム・民俗芸能保存会公演「竹富町 島々の民俗芸能」開催
竹富島ツアー 2013年1月
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