旧暦9月の己亥(つちのとい)を吉日として3日間にわたって行われる300年以上も続くお祭です。(重要無形文化財)
1日目は、翌日の新しい年を迎える準備をし、2日目は翌日のための予行演習、そして3日目は五穀豊穣を願う「ユークイ」が盛大に執り行われます。
祖納の節祭の舞台となる前泊にあり、シラサギやアマサギ、コサギ、などの海鳥がたくさんいる丸い小島の名前。
シラサギは、夜明けとともに、水田などのえさ場に向かって飛び、夕方、再びこの島に戻ってきます。この情景は今も変わらず続いています。
下記の「まるまぼんさん」は、西表島を代表する唄の一つです。
ヨーホー まるまぼんさん
ゆにゃゆにゃ見りば 風ぬ根ゆ知ち いちゅるシルサヤ
(エンヤラヤンザー サーエイエイエイヤー
ハリバサヌシ ヒヤマッタヌ タムヌジュー)
まるまぼんさんを夕方のたびにみると
風の吹く方向を知っていて 木にとまっているシラサギよ
(参考資料:西表島エコツーリズム協会編「西表島エコツーリズム・ガイドブック ヤマナカーラ・スナピトゥ(ヤマ・カワ・ウミ・ヒト)」)
幕末から明治に至ること、石炭は重要な燃料として徐々に注目されるようになりました。琉球王国、薩摩藩、黒船でやってきたペリーなどが西表島に石炭があることを知るところとなり、明治12年に琉球王国が崩壊し、ついに明治18年から三井物産によって炭坑開発が本格的に始まりました。以後、第二次世界大戦が終わるまでの60年間、日本各地から集められた人夫たちがマラリアに苦しめられながら、過酷な労働を強いられる場となりました。宇多良(うたら)炭坑は、島最大の炭坑で、映画館や芝居小屋などがある炭坑村として栄えた時期もありましたが、資源の枯渇と終戦でその幕を閉じることになりました。
(参考資料:西表島エコツーリズム協会編「西表島エコツーリズム・ガイドブック ヤマナカーラ・スナピトゥ(ヤマ・カワ・ウミ・ヒト)」)
木綿を素材とした織り物の一種で、「ミン(木綿)でできたサー(幅の狭い)帯」のことをミンサーといいます。沖縄県内でもいろいろな織り方があり、熟練した手技と根気が必要とされます。手で締め織ることで、帯に厚みができ、独特の風合いの仕上がりになり、使うほどに体に馴染んでいきます。
今では沖縄といえば思い浮かぶほど有名なこの写真の絣柄は、竹富島が発祥だと言われています。
かつて通い婚が行われていた時代に、女性から男性にミンサーを贈る風習があり、竹富島の女性たちは心を込めてこの柄を織りこんだのです。
「四つ玉、五つ玉」の絣柄には、「いつ(五つ)の世(四)までも末永く」、
ムカデの足と呼ばれる両耳の白と藍が交互する二列の模様には「足繁く通って来てください」、絣柄を挟む二本の線には「道を踏み外すことなく、愛を育ててほしい」という願いがそれぞれに込められています。
明和8年旧暦3月10日(1771年4月24日)午前8時ごろ、八重山群島全域を揺るがす大地震が起き、大きな津波が押し寄せました。地震の規模はマグニチュード7.4、震源地は石垣島の南南東40kmという近さでした。石垣島宮良牧中で85.4mに達したとされています。
小浜島では、住民1900人のうち、公務で石垣島に出かけていた9人が犠牲となりました。小浜島は島全体が高く、中央に99.4mの大岳(うふだき)があり、被害が少なくてすんだようです。が、海岸の水田地帯には、津波が押し寄せたため、海水に浸かった水田地帯をナーンダニと呼びようになりました。「ナン」は八重山の古い言葉で津波のことで、ナーンダニとは、津波の田という意味です。ナーンダニの一本松(リュウキュウマツ)のところまで大きな波が押し寄せてきたということが言い伝えられています。昔のデートスポットでもあります。
この道が、NHK朝の連続テレビ小説「ちゅらさん」で一躍有名になり、両側がサトウキビ畑のため「シュガーロード」と名付けられました。ところが、島内に1990年代には94ヘクタールあったサトウキビ畑が、2008年には49ヘクタールと半減してしまいました。両側にあったサトウキビ畑も、現在は牧草地が多くなっています。