マメ科の常緑高木。雌雄異株で、果実は赤く色づいたら食べられます。材は建築や桶材に、庭木、生垣にします。材質は丈夫で白い木目が美しく、八重山で最高の建築材とされています。材質が堅いため白アリの被害が少ないです。
南西諸島の西南端に位置し、早くから異国船の来航が多かった八重山地方は、沖縄諸島に比べて、近接船舶の監視と通報の任に当たった遠見番所と火立番が重要な地位を占めていました。特に明と清が入れ替わる動乱期の1644年ごろには、西(中国、なかでも福州の方向)への眺望の良好な場所が選ばれ、建設されました。それぞれの島の自然条件を最大限に生かし、島から王府へ向けて烽火を継いだのです。背景には、キリスト教の禁教と鎖国、スペイン艦隊の侵入といったことの影響も大きかったようです。
今でも、島々の各地に火番盛や遠見番所などが残っています。
八重山では、石垣島の平久保遠見台と川平火番盛、竹富島のクスクムイ(小城盛)、黒島のプズマリ、新城島上地島のタカニク、同下地島の中森(波照間ムリ)、小浜島の大岳、与那国のダティグチディの10か所が指定されています。
(参照元:竹富町史 小浜島、竹富島)
13~17世紀にかけての遺跡からは、地元産の土器のほかに、中国製を中心とする陶磁器が大量に出土することから、海外との交易が活発に行われていたと考えられています。
農耕も行われるようになり、生産性が向上するのに伴って集落の規模も、次第に拡大し、各地域を治める首長たちが現れ、群雄割拠の時代を迎えました。やがて、その中から、八重山全域に勢力を広げていったオヤケアカハチが登場し、琉球王府との衝突を起こしたオヤケアカハチの乱を経て、琉球王国の一部に組み込まれていくことになります。
ウティスク遺跡は、琉球石灰岩を基盤とし、東側から南にかけて急な崖になっていて、崖下には沢が流れています。丘の頂上には狭い範囲だが平たん地があり、そこをとり囲むように石積みが積み巡らされていて、防御的な機能を果たしていたと考えられています。
2004年に竹富町史跡に指定されました。(参照元:竹富町史第3巻 小浜島)
木綿を素材とした織り物の一種で、「ミン(木綿)でできたサー(幅の狭い)帯」のことをミンサーといいます。沖縄県内でもいろいろな織り方があり、熟練した手技と根気が必要とされます。手で締め織ることで、帯に厚みができ、独特の風合いの仕上がりになり、使うほどに体に馴染んでいきます。
今では沖縄といえば思い浮かぶほど有名なこの写真の絣柄は、竹富島が発祥だと言われています。
かつて通い婚が行われていた時代に、女性から男性にミンサーを贈る風習があり、竹富島の女性たちは心を込めてこの柄を織りこんだのです。
「四つ玉、五つ玉」の絣柄には、「いつ(五つ)の世(四)までも末永く」、
ムカデの足と呼ばれる両耳の白と藍が交互する二列の模様には「足繁く通って来てください」、絣柄を挟む二本の線には「道を踏み外すことなく、愛を育ててほしい」という願いがそれぞれに込められています。
明和8年旧暦3月10日(1771年4月24日)午前8時ごろ、八重山群島全域を揺るがす大地震が起き、大きな津波が押し寄せました。地震の規模はマグニチュード7.4、震源地は石垣島の南南東40kmという近さでした。石垣島宮良牧中で85.4mに達したとされています。
小浜島では、住民1900人のうち、公務で石垣島に出かけていた9人が犠牲となりました。小浜島は島全体が高く、中央に99.4mの大岳(うふだき)があり、被害が少なくてすんだようです。が、海岸の水田地帯には、津波が押し寄せたため、海水に浸かった水田地帯をナーンダニと呼びようになりました。「ナン」は八重山の古い言葉で津波のことで、ナーンダニとは、津波の田という意味です。ナーンダニの一本松(リュウキュウマツ)のところまで大きな波が押し寄せてきたということが言い伝えられています。昔のデートスポットでもあります。
この道が、NHK朝の連続テレビ小説「ちゅらさん」で一躍有名になり、両側がサトウキビ畑のため「シュガーロード」と名付けられました。ところが、島内に1990年代には94ヘクタールあったサトウキビ畑が、2008年には49ヘクタールと半減してしまいました。両側にあったサトウキビ畑も、現在は牧草地が多くなっています。